FROM 帯津良一
食道がんの手術は昔のような
大変な手術ではなくなった。
手術時間にして4、5時間。
出血量も少なく輸血を必要としないことも
珍しくはなくなった。
胃がんの手術とあまり変わらない
スマートな手術になったのである。
胃がんといえば、胃がんのチームに
同じ東京大学第3外科から赴任した片柳照雄先生がいた。
同世代ということもあって無二の親友だった。
生涯私が相見えた外科医のなかで、
これほど手術の名手を知らない。
そのうえに酒席の名手でもあった。
何も大したことを話しているわけでもないのに、
ただ杯を酌み交わしているだけで楽しかった。
後年の太極拳の楊名時(ようめいじ)先生を
髣髴(ほうふつ)させる。
わずか数年間のこととはいえ、
彼と職場をともにしたことを我が生涯の喜びとしている。
また食道がんチームのヘッドであった
岩塚廸雄先生とは
これまたしばしば酒を酌み交わしたが、
それ以上によき競馬仲間だった。
土曜日の午後など、時にふたりして
中山競馬場に足を運んだものである。
お二人ともすでに鬼籍に入ってしまったが、
いまでもよくお付き合いをしている友人に
胸部外科の酒井忠昭先生がいる。
私と同世代にして
現在でも訪問診療のチームを率いて活躍している。
当時外科医として
いかにいい手術をするかを信条としていた。
いやしくも他人様(人さま)の身体に傷をつけるのだから、
必要にして十分なことを
手早くおこなうことを至上命令としていた。
また当時はエコーにしてもCTにしても
まだ実用化されていなかったので、
術前に食道の外側の情報は乏しく、
胸を開いて見て、切除範囲を
決めなければならないことがしばしばだった。
そして戦線を拡大すべきか迷った時は、
これまたいやしくも他人様の身体に
傷をつけるのだからという理由で
縮小のほうを選ぶのを原則としている。
また患者さんは手術という大事業を、
私を信頼してまかせてくれたのであるから、
何があっても一旦はきちんとお返しをする。
たとえそれが不可抗力であっても
手術による死亡は絶対に避けなければならない。
娑婆(しゃば)からお預かりしたものは
一度は娑婆に帰っていただくというのが
外科医として最低の覚悟であると考えていたのである。
そうはいってもままならないのが世の習いである。
詳細はすっかり忘れてしまったが、
ICUから旅立ちを見送ったときのことを憶えている。
患者さんは男性のご老人だったが、
ご家族にお悔やみを申し上げた後、
最上階の14階にある医局に戻ろうとして
エレベーターホールに出て、
白々とあけ始めた空の下(もと)、
まだ眠りをむさぼっている街並みを一望したときの
無念さをいまも鮮やかに思い出す。
昼前にタクシーに乗って上の駅近くの釜飯屋さんに。
お銚子を1本頼んで杯を傾けながら
患者さんのご冥福を祈ったものである。
しかし、幸いなことにこのようなことはめったになく、
いつもはきちんと患者さんを娑婆にお返し申し上げていた。
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◎編集後記
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昨日衣替えを大切にしたい…
と編集後記に記していたのですが
今朝長女が夏用の校帽をかぶって
登校したことに
先ほど気が付きました(汗)
冬帽子に囲まれた白い夏帽子。
ゲームのオセロの白い駒のようですよね。
―三浦とも子