FROM 帯津良一
鍼灸については同じ治療医学でも
漢方薬と異なって
がん治療の一翼を担っているわけではなく、
李岩先生にあたるような
立場の人を紹介されることはなかった。
だからこの訪中における鍼灸の収穫は皆無であった。
ところで、万里の長城行きの際、
ホテルからお弁当を持たされたが、
殺風景なボール箱のなかに
大作りなサンドウィッチとゆで玉子が
入っているだけのきわめて質素なものだった。
物資面では文化大革命後の
発展途上ということだったのかもしれない。
食事は三食とも北京飯店でしたためた。
食卓の豊かさということでは十分なものがあったが、
味は、これぞ北京料理ということか、
日本でなれた中華料理とは少しちがう味であったが、
それでも苦になるということはなかった。
早朝はホテルから近い
天安門広場を中心に散策と決め込んだが、
天安門近くの公園では練功に励む人の花盛り。
多種多様で見ていて飽きない。
文化大革命時代は冷遇されていた気功が、
時を得て一気に花開いたということか。
もう一人、私の訪中のきっかけをつくってくれた人がある。
中国医学院の黄国俊教授である。
さしずめ日本なら
東京大学第一外科教授というところか。
彼の教室の食道がんと噴門(ふんもん)がんの
治療成績に関する論文が
アメリカの学術誌に掲載されたのを読んだのである。
そしてその症例の多さと成績のよさにおどろいた。
私の訪中に拍車をかけたことはまちがいない。
温和で知性あふれる彼の物腰にいたく感銘した。
私の求める理想の外科医像に
欠かすことのできない教授である。
その彼を訪れて応接室で待っているとき、
ふと緑なす庭先を見ると
一人の品のいい老女が
太極拳を舞っているではないか。
当時はまだ太極拳に手を染めていなかったが、
彼女が相当な使い手であることはわかる。
思わず見惚れていると、眼と眼が合ってしまった。
彼女は表情ひとつ変えることもなく、
いきなり雲手(うんしょう)という動作に移り、
あっという間に私の視界から消えてしまったのである。
その後楊名時(ようめいじ)先生とのご縁を得て、
太極拳の道に分け入り、
私なりに研鑽(けんさん)を積むにつれ
このときの情景を時に思い起こし、
掌中の珠(たま)のように大切にしているのである。
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◎編集後記
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本日は秋晴れのところが
多いようです。
子供の頃は外で遊べるから
独身時代は外出しやすいし、気持ちいいから
今は洗濯物がよく乾くから…
いくつになっても
やっぱり秋晴れが大好きです。
ー 三浦ともこ